冒険心 [キモチ]
「ぼくは教室に向かうとき、いつも冒険しに行くような気持ちなんだ
今日は一体どれだけ、どんな笑顔に会えるだろうと思うと、もうワクワクしてくるんだよ」
先日見た芝居中の教頭先生の台詞に、じーんとした。
昨年小学校と関わって、今現実にいる子どもたちは、舞台の子どもたちより
もっと大人びた目をしているけれど、先生の中にはそりゃいろいろな人がいるけれど、
”先生になりたい”とはじめて思った気持ちにそうブレはないはず。
そして、子どもはどれだけ時が流れても、いつも同じように敏感に生きている。
この日、目の前が大きく水を掻いたように、広がった。
冒険心。
自分自身がこのキモチをいつまでも失わないでいよう、そう強く思った。
コドモの心 [キモチ]
大勢の子どもたちと過ごした時間で気づいたこと。
それは、特別な時間を過ごしたとかではなく、
時間が伸びたり縮んだりしているように感じたこと。
思えば子どものときって、そういう感じ方をしょっちゅうしていたな。
一瞬で思いもよらなかったよろこびに満ち、細胞が飛び跳ねる。
遊びの道具なんてたいして必要じゃない。
基本はいつも変わらず、自然の中(自分のそば)に、自分の中にあると思える。
そぎ落としても残っていくものは、簡単で単純なところにある。
そういうことを真ん中に置いていたい。
特別なことではなく、日常の風景のちょっと向こう側へ・・目をやれば
いきなり自由の窓がひらく。
太陽に一歩、近づくように。
文月へ [キモチ]
夏がすき。
くっきり輪郭をふちどる長く濃い影がすき。
木陰で感じる風がすき。
水で冷やした野菜や果物がすき。
夏に似合う香の野菜がすき。
泳ぐのがすき。
水がすき。
際立って目に飛び込んでくるものがふえる。
狭間にあるもの、隙間にあるものにスポットライトが当たるように。
ちょっとした時や空間を尊く感じる。
梅雨にのぞく突然の晴れ間。
神々しいほどの光。
湯あがりの肌にあたる風。
鳴り止まない蝉の声。
近所から響く普段どおりの生活の音。
ざわめきがうとましくない。
せつないような音や色彩にあふれる。
夏の夕暮れどきの散歩はなぜか懐かしい感情を思い起こさせる。
夏が来るのが待ち遠しい。
夏を思い、7月を歩き出す。
カレンダーを7月へ、あたらしい気持ちでめくる。
友が書きこんでくれた”HAPPY BIRTHDAY”の文字をみつけ、
瞬時に幸福感に包まれた朝。
あたらしい、一歩。 [キモチ]
新年 あけましておめでとうございます
実に久しぶり(笑)に、パソコンの前に座っています。
昨年は、秋以降、母の具合が悪くなり、どうにもこうにも・・ならず、
12月からは、気分転換にblogを・・というキモチにもなかなかなれず、
思い切って、しばらくblogをお休みしていました。
メッセージやメールをくださった方には、この場をお借りして、本当にどうもありがとうございました!
心にかけていただいたこと・・どれほど励まされたかしれません。本当です(涙)。
母の病気は小康状態ながら、おかげさまでこの数日は少し起き上がることができ、
穏やかなお正月を迎えられました。
まずは、心からほっとしています。
わたしも、心身ともに疲労がたまってぐずぐずしていましたが、
もう、あまり焦らないことにしました(笑)。
新しい年へ、やっと一歩、踏み出せそうです。
これからの一年、今まで出逢った人やモノとの縁を深めていきたい。
これからあるだろう新しい出会いも大切だけど、今、自分の心にある大切な人やモノを
もう一度ゆっくりとみつめ、いっしょに豊かに実らせていけるような・・そんな一年にしたい、
と思っています。
新しい一年も、どうぞよろしくお願いします。
永遠の心。 [キモチ]
「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望を持つ。
大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。」
(アルバート・アインシュタイン)
自分が今ここにこうしていることを思う。
なぜ今ここにいるのか。
あたり前のようだが、よく知らないでいることに気が遠くなりそうになる。
自然が映し出す風景の中に、
自然が教えてくれる理の中に、
自分の中にある古代から紡がれてきた奥深く眠る記憶に・・
”今”という時間が果てしなく続いてきて今日という日がある。
ちっぽけに思えるわたしの心の中も、
ずっと遥か大昔からつながっていて
送られた時間を内に抱えて生きているような気がしてくる。
彼方の記憶と共に・・
一体、祖先のヒトたちはどんな風に生きたんだろう・・
空を見上げてどんなことを感じたんだろう・・
どんなよろこびやかなしみがあったんだろう・・
到底知りえない、想像しきれないことだらけだろうが、
それでも、こうして今ここにいることだけでじゅうぶん励まされているようで
新しい勇気が生まれ、心が熱を帯びてくる。
生きてるってすごい。
この”今”も、ずっとずっと後にまで永遠に続いていくかな・・
ほしいこたえはきっと自分の中にある・・そんな気がしてくる。
チャージ [キモチ]
多摩川の土手にある大きな桜の木。
たまに、どうしてもその木に会いたくなる。
昨年春、満開の眩しいくらい真っ白な木の下で、新しいはじまりを予感した。
夏、おおきな木陰の中で、陽射しと強い川の風から守られ、未来に胸が高鳴った。
引っ越して、ちょうど一年。
川沿いに吹き渡る風にあおられながら
目の前を流れる川を、
向こう岸を、
ただ眺めてみる。
対岸からみえるこの場所は、今どんな風景に映っているだろう
昨年のわたしたちは、どんな風だっただろう
今のわたしは、どうだろう
何ひとつ変わっていないようで、
見ようとしていなかったのは、自分自身だ。
歩いてきたまわりの景色は、ちゃんと、変わっていた。
気がつけば、
目の前を流れる水が、
空が、
たちまち広がっていった。
鮮やかさを取り戻して。
もう、まぶしさで迷わないように、
しずかな光を投げかけて。
立ち上がって
草をはらったら、
木が大きくざわざわと揺れた。
ゆっくり、流れる。 [キモチ]
台風が通り過ぎて、すっかり晴れ渡ったひろいひろい青い空、
一瞬でどんどん形を変化させていく、流れる雲たち、
なんとおおらかな、なんとたくましい表情の空だろう。
もうすこし、一日の流れにゆったり身をゆだね、日々をつなげていきたい。
そう思いついて、
先日、10年前に中古で買ったカメラを引っ張り出してみた。
子どもたちの表情を、
一度きりの子どもたちの作品を、
ただ撮りたい、という思いから手に入れたカメラ。
空や、雲や、ココロのハリが振れるモノ、
自分のココロが日々映し出すいろんな表情を、ただゆっくりみつめ、味わいたい。
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「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。
そして、最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのない
その時間である」
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今、自分に必要なこと。
ひと、そして、かけがえのない時間。
ちらし寿司の日 [キモチ]
8月の最終日。
「友だちの誕生日祝いも兼ねて、ちらし寿司を作ろう」と思いついた。
ちらし寿司=わたしの好物
以前から人を招く時には、よくちらし寿司を作っているような気がする。
そういえば、母は、家族の誕生日、お祝い事があると、ちらし寿司をよく作っていた。
それをリクエストしたのは、子どもの頃のわたしだ。
父や兄は、母から「何が食べたい?」と聞かれても
いつも「何でもいい」の一点張り。
精が出ない母は、「何が食べたい?」とわたしに振ってくる。
わたしは、聞かれれば(必ず)「チャーハン!」か「ちらし寿司!」と答える(に決まってる)。
母も、それはじゅうじゅう承知。
聞い(てしまっ)たからには仕方ない。
そうして、手間のかかるちらし寿司だが、母と一緒によく作ったものだ。
それぞれの野菜の下ごしらえ、
灰汁をとったり、茹でたり、煮たり、焼いたり・・
肝心なのは、酢飯を作るときのうちわの扇ぎ方。
一気に冷まさないと、べちゃ~となるので、
しゃもじを切るように、サクサクと混ぜ合わす母の手の横から左右に風を送りつづける。(上下はだめ)
そんなひとつひとつの手順や手間が、わたしは好きだった。
昨日は、午後からそんな作業を、ひとりで順番にやっていた。
ひとつひとつ、野菜の皮をむいたり、酢水にさらしたり、ささがきにしたり、刻んだり・・
いつもより、ゆっくりと動いている自分を楽しんでいる気がした。
実際、料理を作っていて楽しかった。
料理って、こうやっていつも作るものなのかもなぁ・・
母は、家族のお祝いのとき、こういうキモチになったりしたかなぁ・・
母が食事の支度をしているとき、せかせかしたところを見たことがない。
いつも割烹着姿で、鼻歌歌っていたなぁ・・
そんなことを思い出した。
食べてくれる人がふたり居て、和やかな様子を見られるのは
なんともいえず、しあわせな光景。
夜がすっかり更けても、メダカ談議、物理の話、月や太陽の不思議について、
わたしと友だちは並んで、講義してくれる夫にぶーぶー(笑)
駅まで友だちを見送りがてら、三人並んでぶらぶら夜の散歩。
時間はとてもゆっくりで、夫もくつろいでいるようで、うれしかった。
友だちの誕生日祝いに、木の小箱とその中に手作りのものをいくつか入れた。
それと、絵本。
夫には、通勤用(自転車通勤なので)のリュックサックを記念に。
ちらし寿司の記念日。
母からゆずり受けたもの。